The Times They Are A-Changin

嵐活動休止。悲しみが広がっている。

我が家に於いても、当該案件は妻を苛み、我家に暗い影を落としている。温度感の低い僕としては、油断すると間違えて解散、と言ってしまいそうになるが、そんな事を言ったら背中を刺されそうな気がする。まあ、呼び方はなんでも良い。ひとつの時代が終わったという事だ。それは、ファンの方々が一番感じているのでは無いだろうか。心中お察し申し上げます。

少し前、2018年の末にゆずの解散疑惑騒動があった。意味深な告知と発表までの2日間という空白。僕は中学生くらいから長きにわたり彼らの歌を聴き続けてきたので、解散なら大ニュース。遂に終わるのか。冬の空に息を吹きかけ。蓋を開けてみればライブスケジュールの発表だった。北川この野郎。思わせぶりな炎上商法にまんまと騙された訳だが、2日間はあれこれ想像を巡らせた。そして思った。続けて欲しい。辞めないで欲しいと思った。いい大人が。生娘のように。

何故だろう。何故なら、活動を辞めた瞬間、そのアーティストは過去になるからだ。ひとつの時代として区切られ、分類され、解釈され、箱に入れられ、片付けられてしまう。時間の流れと共に古びていき、いつか忘れられるだろう。それはつまり、その作品によって形作られた我々自身も過去になるということだ。僕で言えば、13才で初めて出逢ったゆず。あの埃臭い北京の環状道路で通学バスに乗りながら聴いた「いつか」「四時五分」「方程式2」。多感な時期の心象風景と、当時聴いた曲が混ざり合い、自分の一部になっている。ジューク、ワカバ、セカハン、唄人羽コブクロブリトラ、サスケ、平川地…今となっては音楽シーンの前線を去った数多のフォークデュオ達。アコギという哲学。路上という生き様。相方という神話。それらに横面を殴られ、方向づけられ人生を歩いてきた。加齢と共にビートルズを聴こうが村上春樹を読もうが就職して家庭を持とうが、原体験を塗り替えることは出来ない。ある人はサザンだったり、またある人は沢木耕太郎だったり、スラムダンクだったりするのだろう。たまたま僕を捉えたのがフォークデュオだったということだ。それが解散することで、その根元が、平成という時代に閉じ込められ、時代の遺物としてラベルを貼られてしまう。路上ライブ?そんな時代もあったね。平成って感じだよね。今はネット配信だよね。我々は船が錨を失ったような状態になる。それでも人生は続く。新しい錨を探さなくてはならないが、今となっては、それはほとんど不可能に近い。新しい歌手や曲に手を出しても、ほとんどはカップ麺の新作を喰ったくらいの感慨しか得られない。新しい歌に罪はない。この年になって、他者から安易に感動を求めるのが愚かなのだ。数百円~数千円で手に入る作品。若き日の心の動きに勝るものを、大人になった僕が、そう簡単に得られる筈がない。加齢を感じる。同じものは手に入らない。だから彼等に続けて欲しい。年に一回、紅白歌合戦を観るだけでもいい。その世界が今、この世の中に存在する、通用する、戦えるものだということを示し続けて欲しい。幼い僕の心象風景も、去っていった路上ミュージシャン達も、今の僕自身も、そこに紐付いているのだ。

アーティストにしてみれば、続けるといっても簡単ではない。同じ事を繰り返せば飽きられ、変化すれば裏切られたと言われる。自分の価値観も周囲の状況も変わっていく。それでも活動を続け、かつ先頭に立ち続けるということは並大抵のことではない。嵐に話を戻せば、20年。休みたくもなるのだろう。それでも休止、という言葉を使えば、たとえ名目上であっても存続はする。誰かの錨が失われることはない。いつかは終わりが来る。少なくとも思い出を穢される事はない。そんな講釈を、肩を落とす妻に垂れる気にはならないが。

 

ところで今私は深夜零時、凍てつく寒さの中、セブンイレブンに来ている。明治のチョコレートを計300円以上購入し、松本潤の限定クリアファイルをゲットするためだ。妻から指示されたのである。各店限定26枚。何が悲しくて30を超えた男がひとり、松本潤だか十姉妹だかの為に深夜のコンビニに並ばなければならないのか。明日も仕事で朝早い。妻は僕を労うだろうか。僕の愛を認めるだろうか。そう、これは横浜でひとり孤独にツワリと戦う妻に、埼玉の地からなにもしてやれない僕の贖罪なのである。入手したクリアファイルに印刷された松本潤の笑顔が眩しい。状態よく保存すれば、僕が死ぬまで彼はクリアファイルの中で生き続けるだろう。見上げた夜空。冬の空に息を吹きかけ。

愛地獄2

初めて告白した女の子は銀杏BOYZのファンだった。映像作品「僕たちは世界を変えることができない」を吉祥寺の映画館へ2人で見に行き、僕は彼女を夢中にさせる銀杏BOYZってヤツに嫉妬しながら映画をみた。

僕の恋敵は、スクリーンの中で肛門の匂いを嗅ぎあったり夕焼けを見て泣いたりしていた。見てるうちに、こいつらが敵なのか味方なのか訳が分からなくなった。畜生。こいつらが好きなその子を、ますます好きになった。そのまま半狂乱で告白し、玉砕した。帰ってアコースティックギターを掴み外へ飛び出し、誰にも見つからない高架下で一人「人間」を歌った。「あなたが幸せになったとき、こんな歌忘れてくれ。」映画館で聞いた峯田の言葉が忘れられなくなった。

 

数年後、生まれて初めてセックスした人は、一緒に銀杏BOYZのライブに行った女の子だった。ライブ中、峯田の吐いたミネラルウォーターが頬にかかり、僕は顔射されたような気分になった。興奮が醒めやらぬまま、彼女を家に連れ帰り、リリースされたばかりの「僕たちは世界を変えることができない」のDVDを開封してふたりで観た。そのまま僕は童貞を捨てた。精液のたまったコンドームとDVDを包んでいたフィルムがゴミ箱のなかで絡み合った。

 

銀杏BOYZの9年ぶりのアルバムが発売された今、僕は会社員になり結婚している。妻のお腹には子どもがいる。妻はかつての2人と違って、銀杏BOYZが好きではない。そもそもロックにあまり興味がない。僕もいつしか音楽を熱心に聴かなくなり、それなりの毎日を生きていた。驚くべきことに、あれほど僕を救ってくれた「人間」という曲も忘れてしまっていた。これが「幸せになった」ということなのだろうか。

 

でも僕は知っている。そいつはずっと、僕の中に隠れているだけだ。器用に生きてるふりしたって、僕はあのころから、これっぽっちも変わっていない。性欲と自尊心と焦燥感。恋と退屈とロックンロール。自分が大好きで、同時に大嫌いだった。毎日が退屈で、同時に新鮮だった。

 

銀杏BOYZの音楽がなかったら、僕はあの心地いい内省の地獄から抜け出せなかったと思う。でも同時に、あの心地いい地獄に引き戻してくれるのもまた、銀杏BOYZの音楽です。これからも自分の信じた音楽を貫いていってください。応援してます。

 

名前:ライ麦

性別:男

年齢:26才

職業:会社員

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1_埠頭を渡る風

横浜の島忠が改装したので行ってみた。

売場面積2500坪2層。駐車場収容台数1446台。本牧埠頭A突堤の根元に位置し、東京湾岸道路、首都高湾岸線でのアクセスが良い。港の見える丘公園徒歩10分。何より横浜市中区、山下町というバブル立地。「え⁉︎私の名前をご存知無い⁇」みたいな奥様が多数生息している土地だ。賃料も異次元だが、売上も高い。1階がホームセンターと食品。2階に家具インテリア。そのうち2階を丸ごと大改装である。ネットニュースもなかなか好意的に取り上げている。TSUTAYAとコラボし、家具が買える書店、furniture&book caféとしてリニューアル。家具でコトを売る店。体験型の暮らし。集客力・収益力のある新業態。云々。景気のいい惹句が並んでいる。実際、代官山蔦屋や湘南T-SITEなど、CCCが展開する店舗は魅力的なものが多い。僕は片道70分かけて二子玉川蔦屋家電に通っている。30分圏内に蔦屋家具が出来るなら、個人的に大変嬉しい。島忠の高級ソファで珈琲を飲みつつ読書できれば最高だ。休日の度に行くだろう。

 

結論から言うと、大変がっかりしました。行きましたが。到底、通いたいと思える店では無い。期待との落差に、怒りすら覚えます。まず書店ですが、その辺の古い、街の本屋を間延びさせただけ。「君たちはどう生きるか -漫画版-」のフェイス(陳列行数)を2から4に増やしたに過ぎない。というか今更「君たちは~」を入口に大量陳列する惰性。安直さ。思慮の浅さ。入口から失望させてくれる。ベストセラーの大量平積みに始まり、連なるは雑誌、料理ムック本、まっぷる伊勢志摩。うんこ漢字ドリル。大量の漫画(ワンピース、転生スライム、ちびまる子ちゃんワンパンマン)。奥に文庫の陳列棚(出版社&作者あいうえお順)。規模がデカイだけで、いやデカイからこそ、欠伸が出る程凡庸な本屋ですよ。無理に拡大した、画素の荒いウインドウズの壁紙でも見ているかのようですね。出会いも提案も発見も無い。血が通ってない。照明を暖色のスポットにしたところで私は騙されませんよ。また、僕は珈琲を片手に本を選び、書棚の傍に座って読書できると思ってたんだけど、ここはカフェ・レストランが隔離されている。書店内に椅子は無い。客は事前に本を選び脇に抱え、隔離されたパーテーションを乗り越え、「あ、1名」とか言って席に着き、給仕に発注を飛ばさないといけない。あのですね、書店の傍らでわざわざ腰を据えてハンバーグなんか食いたくないんですよ。僕は書店に行くと自律神経が緩んでウンコをしたくなるんです。その隣でハンバーグとは…いやはや、たいした豪傑ですわ。

次に展開される家具インテリアスペースも、意図はわかりますが、外してると言わざるを得ない。イイカンジな空間がある。それは良い。問題はこのテーブルに置かれたシャレオなマグカップを、そのまま掴んで会計して良いかだ。たぶん駄目だろう。あ、これ展示なんで…と誰も得しないクソなやり取りが展開される。でも近くに在庫がある様には見えない。値段もマグをひっくり返さないと見えない。そして高い。店員は見つからない。マグひとつ買うにもこのストレス。売る気があるのだろうか。見せて満足なのだろうか。余程の絶倫でない限り、この買い辛さは突破出来ない。ショッピングカートが無い。買い物カゴすら無い。両手に持てるインテリア小物はせいぜい3、4個だ。ちょっとしか買えない。これで売上が取れるのか。このブルジョワ立地のメガンテな賃料を払うために、一体どれだけの入客数、買上率、買上品目数、客単価を想定しているのだろうか。周りを見ると僕含め客達は虚ろな顔で、店内をうろつき、雑貨を手に取っては戻したり、家具をただ眺めたりしている。「暇人」という言葉が似合うシルエットだ。誰も商品をレジに持参しない。買わない。会計しなーい。足が疲れてきた。通路の形状、従業員配置、陳列意図、レジ効率、坪売、防災安全対策…一度気になるとあらゆる箇所が目につき始める。勘弁して欲しい。今日は休日なのだ。頭が痛くなってきたから2階フロアを離れた。1階は安定の島忠ホームズ。蛍光灯で照らされた明るい店内。豊富な品揃えと大量の在庫。ラミネートされたダサいPOP。巨大なショッピングカートと常時5台開局の流しレジ。ホチキスと裁断機を買って領収書をゲットした。

 

期待してただけに残念である。全体としても、書店、飲食店、家具店が実質独立しているから相乗効果が無い。furniture&book caféというより、只のショッピングモールだ。複数社が絡んだ改装。諸々大人の事情があり、数多の妥協を経て完成したものと推察する。個人的な意見だが、このままではヤバイ。第一印象で騙せても、程無く飽きられる。今後、再投資するか、撤退するか、選択を迫られるだろう。どちらに転んでも、僕にとっては悪くない。でも多額のコストを払った実験店舗。簡単に止められない筈だ。責任者にも家族が有る。試行錯誤していく筈である。まだ始まったばかり。折角ならイイカンジの店にして頂きたい。僕含め、横浜市民の豊かな休日のために。アイフォーンで自社株が急落していることを確認し、あいみょんを聴きながら家に帰った。

1_もうすぐ帰るよ

単身赴任になって9ヶ月程経つ。

話すと長いが家族は横浜に残り、僕は埼玉で仕事している。横浜の家は中々住み心地が良いが、単身の家は網走の刑務所みたいな所だ。築年数がタメ。陽当たりゼロ。僕が産声を上げてから、今日に至るまで、平成30年間、一度も日光が当たっていない6畳一間。想像出来るだろうか。そんな不幸な空間がこの世界に存在するのだ。齢30を超えてこんな場所に住むとは…。とは言え、僕は基本的には楽観的な人間である。呼び方によっては別荘。都会の喧騒を離れたJR駅徒歩7分の隠れ家である。書斎を持つのは夢だった。アーロンチェア。壁一面の本棚。一枚板のデスク。執筆用のiMac。間接照明。ウンベラータ。アルフレックスのソファ。珈琲ミル。グレッチのエレキギター宮崎あおいさんの写真集。来るべき新生活を前に、僕のプランを妻に開陳したのだが、ちょっと楽しそうなオーラを出したのが不味かった。「一時的な単身赴任に何故そのようなものが必要なのか」と全却下。ニトリの折畳みテーブルと丸椅子しか買って貰えなかった。悲しい。ベッドも無し。床にマットレスを直接敷いて寝ている。この使い方は湿気が溜まってカビやすい。僕はそうゆうの結構詳しいんだけど、ベッドを買えないから仕方ない。毎日マットを壁に立てかけ家を出ている。洗濯機が無いからコインランドリーに行く。冷蔵庫はあるが、旅館にある奴くらいで冷凍できない。中には賞味期限の切れた納豆2パックとビール。炊飯器が無いから土鍋で米を炊く。弱々しい換気扇。点滅する蛍光灯。冷たい便座。見たことないデザインのダサい鍵。薄暗い廊下ですれ違うご近所様は、漏れなく訳アリな感じに見える。僕も、彼らからそう見られている事だろう。ポストには身に覚えのないチラシがバサバサ投げ込まれる。そんなマイ別荘。悲しい。仮に僕が新入社員として、上司がこんな家住んでたら転職しますよ。この前も新入社員に「掃除機持ってんすか?」と聞かれた。持っていない。部下に申し訳ない。尊敬される人間でありたい。

 

そうゆう状況下、週2回の休みはほぼ欠かさず横浜に帰っている。横浜の家ではルンバが浅田真央の様にクルクル滑走している。食器洗乾燥機。ドラム式洗濯乾燥機。自動風呂焚き。温室便座。オートロック。宅配ボックス。ブルーレイ。ディンプルキー。ホットカーペット電動アシスト自転車…。贅を尽くした21世紀型住宅である。僕が世紀末の網走刑務所から毎週家に帰るのはその設備を享受するため、ではなく家事をするためである。妻が労働に出ている間、掃除洗濯。子どもの送迎。 夕食の支度を行い妻を待ち構える。僕も21世紀型、全自動家電のひとつに過ぎないのでは。と思う。悲しい。しかし文句は言わない。愛する妻は、子どもをひとり抱え、満身創痍なのだ。僕は埼玉の別荘で、小鳥達と優雅に木の実を食べて暮らしているにドワーフに過ぎない。経験上、この状況下、文句を言ったところで、決して幸せになれない。荒れ狂う大海に、ボートの上から叫んでも意味がないのだ。だから僕は今日も終電で横浜に帰り、始発で埼玉に出勤する。片道2時間、1500円。毎週6000円が上野東京ラインの車輪に巻き込まれ消えていく。ジーザス。この生活も間も無く一年。自腹で乗ったグリーン車。もし隣席に宮崎あおいさんが居たら、きっと僕は彼女の胸に顔を埋め、一粒だけ涙を流すであろう。それくらいの権利はある。悲しい。

1_金輪際

小さい頃、多分小学生だ。

夜の高速道路、後部座席でまどろんでいる。ハイウェイを走る等間隔の振動が眠気を誘う。両親の背中が見える。たくさん遊んで、疲れた。まだ起きていたいけど、寝てて良いよーとか言われて、流れる照明灯を見ながら目を開けたり閉じたりする。そしていつの間にか寝てしまう。気づかぬ内に家に着き、暖かい布団に運び込まれる。そういう記憶は多分皆あるのだろう。小さい時の思い出は、なんだかドラマチックな色彩で、掛け替えの無いものに感じられる。

そして、今現在、我が息子がそんな世界を生きているのだ。そうゆう事実は結構感動する。彼にとって、運転席の父親は即ち僕なのだ。隣の母親は僕が就職活動中に出逢った女性ある。僕にとってぱっとしない休日の軽いドライブでも、息子は将来、なんかソレを良い感じに回想するのかも知れない。ローソクの火を消したり、凧をあげたり、怒られて泣いたり。笑う時は本当に楽しい時だし、泣く時は本当に悲しい時なんだろう。隣で見ていて愛おしい。我が息子は今どんな景色を眺めているのだろうか。

 

息子は今、布団に寝そべり、りんごジュースのストローをだらしなく咥えながらタブレット端末に齧り付き、下品な動画を見ている。人形の服を脱がし、ケツに糞を模したチョコレートを塗る動画だ。本当に最低だと思う。止めろと言っても聞かないのだ。取り上げて、縞次郎とかに切り替えても、2才で習得したスワイプ、タップで巧みに関連動画を辿り、目当ての下品な動画を見つけてしまう。中年男性が雪山を走り回る動画。グロテスクな蜘蛛の玩具を皿に盛り付ける動画。「鬼は外、福は内、城之内」という掛け声で遊戯王に出てくるキャラクターの面をつけた変質者が飛び出す動画。俺より年上と思しき不潔なオッサンが幼児用の玩具を自慢する動画(玩具を開封する際の「あけまぁす」という口調を最近真似し出した)。

製作者には申し訳ないが、本当に内容ゼロのゴミコンテンツである。人生の消耗だし、疑問の余地なく教育に悪い。漏れ出る音を聴くだけで脳がスポンジ化しそうだ。しかしいちいち再生回数が10万とかいってるのが腹立つ。邪!魑魅魍魎ども。俺の息子に近寄るな。息子には一流の物に触れてほしいのだ。許可できるのはピコ太郎とヒカキン、あとはperfumeのPVくらいのものだ。

こんな下品な板は取り上げ、川に投げ捨てるのが大黒柱たる私の役目。父の威厳を見せなければ。彼の幼少期の美しい思い出が尻に塗られたチョコレートや飛び出す城之内克也で埋まってしまう。しかし奮起して取り上げると泣き喚きパパあっち行けと言われる。手が付けられないから、あっち行く。なんだか威厳ある感じじゃないなー。尊敬される父親でありたい。しかし彼も、若干4才の身で保育園にフルタイムでお勤めしてる身である。週5日、9時から18時まで。保育園も上下関係とか派閥とか心労半端なさそうである。1日の終わりに、自宅で気兼ね無く下品な動画を見る権利くらいあるのではないか。そう思いつつ数年。我家に響くフリー素材のBGMや効果音。彼の将来に幸あれ。

 

家族共用の端末を独占されているので、機種変更した我がアイフォーン6Sを息子にあげてはどうか、と妻から提案があった。承諾しかけたが、待てよ。僕の旧端末に保存されている下品な動画や閲覧履歴が息子に紐解かれると非常に卍なことになる。「なんか調子が悪いから待って」と雑な嘘を吐いた。単身赴任中の自宅に一時避難させ、データ初期化を図る途中、落として画面が割れた。妻にはまだ言っていない。僕は悪い報告が苦手なのだ。

1_No Reply

日記を書くことにした。

僕は文章を書くことが好きだし、文章の中でしか正直になれない。ビールを飲んでも正直になれる気がするが、そんな日は後から後悔することも多い。自分の内側の嫌なところばかり出してしまった気がする。帰りの電車で、又は翌朝アルコールの残滓の中で自己嫌悪に陥る。あれは俺じゃないんだ、とは言えない。あれこそが俺なんだと、俺が一番良く解ってるからだ。


しかし文章を通すと、自分の本音とマトモに向き合える。例えば、上段は昨晩書き、この段落は翌朝書いている。昨日の文章の続きを、平常な心で書き始められる。

文章を書くことは容易い。頭に浮かんだ言葉を文字にすれば良い。フリック入力はするすると僕の思考をスマホの画面に落としていく。流れるように、あるいは垂れ流すように。思考がメモアプリに落ちていく。名言も教訓も要らない。誰でも出来ることだ。日を空けて読んでみる。修正を行う。文章がマトモになっていく(と個人的に思える)ことが嬉しい。溢れた思考に水路を与え、脈略を建設し、ゴールを設定する。要所要所のネジを締めて緩みを無くしていく。肉付けをし、贅肉を落とす。ひらがなとカタカナと漢字の割合を調整する。簡単な言葉を難しく言い換えたり、逆の事をしたりする。リズムが悪くないか黙読してみる。誰かを不快にさせないか、本音とズレてないか、気障じゃないか。真面目すぎないか、愚かすぎないか。色んな角度から読んで、都度書き直す。句読点を一度外し、やはり同じ位置に打ち直し納得する。時間は掛かるが、そうして出来上がった物に、自己嫌悪を感じる事はない。僕の吐き出した思考はひとつのパッケージに昇華される。

 

しかし、僕本人以外にそんなもの誰が求めるのだろう。早い話、体裁を整えたゲロだ。こうゆうのは作者名で価値が決まる世界である。吉岡里帆とかサン=テグジュペリとか孔子とかのなら皆挙って求めるだろう。でも僕のソレに需要は無い。「納豆美味しい」とか「明日から頑張ろう」とか書いても。書くのが僕と小泉進次郎とでは、まるで意味合いが違うのである。

更に言えば今のご時世、日記の公開はリスクでしかない。会社勤めも8年目になる僕は、組織からコンプラ精神を刷り込まれてしまった。一応、責任ある立場である。社のことを書いて起こり得る最悪の事態を想像すると、僕の筆は止まってしまう。書けるトピックは限られるし、個人名は勿論、具体的な事象も語りにくい。多分皆そうなのだろう、気づけばmixiは消滅し、twitterFacebookInstagramも僕の周りでは限られた人しかやっていない。昨今、良い大人が、心に映りし由無し事をネットに掲載するのはあまり褒められたことでは無いらしい。要するに、誰も得しないのにリスクは高い、ということだ。

 

それでも書くのは最初に申し上げた通り、それが好きだからだ。日記を書くのは自己との対話である。思考を垂れ流し、研ぎ澄ますプロセスで自分が形作られる。その作業が単純に楽しい。或る性格検査で「貴方の生涯の伴侶は貴方自身です」と言われた。然り。喫茶店に座ると、向かいの席には自分が座っている。自分はそうゆう種類の人間だ。これ迄も、これ以降も変わることはないだろう。公表することにしたのは、単純に誰かに読んで欲しいからだ。曲を作ったら誰かに聴かせたくなるのと一緒だ。1記事1曲。12記事くらい書いたらアルバムが出来るかもしれない。

うまくいくといいね。向かいの席の自分が言う。うまくいくといいね。