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日記を書くことにした。

僕は文章を書くことが好きだし、文章の中でしか正直になれない。ビールを飲んでも正直になれる気がするが、そんな日は後から後悔することも多い。自分の内側の嫌なところばかり出してしまった気がする。帰りの電車で、又は翌朝アルコールの残滓の中で自己嫌悪に陥る。あれは俺じゃないんだ、とは言えない。あれこそが俺なんだと、俺が一番良く解ってるからだ。


しかし文章を通すと、自分の本音とマトモに向き合える。例えば、上段は昨晩書き、この段落は翌朝書いている。昨日の文章の続きを、平常な心で書き始められる。

文章を書くことは容易い。頭に浮かんだ言葉を文字にすれば良い。フリック入力はするすると僕の思考をスマホの画面に落としていく。流れるように、あるいは垂れ流すように。思考がメモアプリに落ちていく。名言も教訓も要らない。誰でも出来ることだ。日を空けて読んでみる。修正を行う。文章がマトモになっていく(と個人的に思える)ことが嬉しい。溢れた思考に水路を与え、脈略を建設し、ゴールを設定する。要所要所のネジを締めて緩みを無くしていく。肉付けをし、贅肉を落とす。ひらがなとカタカナと漢字の割合を調整する。簡単な言葉を難しく言い換えたり、逆の事をしたりする。リズムが悪くないか黙読してみる。誰かを不快にさせないか、本音とズレてないか、気障じゃないか。真面目すぎないか、愚かすぎないか。色んな角度から読んで、都度書き直す。句読点を一度外し、やはり同じ位置に打ち直し納得する。時間は掛かるが、そうして出来上がった物に、自己嫌悪を感じる事はない。僕の吐き出した思考はひとつのパッケージに昇華される。

 

しかし、僕本人以外にそんなもの誰が求めるのだろう。早い話、体裁を整えたゲロだ。こうゆうのは作者名で価値が決まる世界である。吉岡里帆とかサン=テグジュペリとか孔子とかのなら皆挙って求めるだろう。でも僕のソレに需要は無い。「納豆美味しい」とか「明日から頑張ろう」とか書いても。書くのが僕と小泉進次郎とでは、まるで意味合いが違うのである。

更に言えば今のご時世、日記の公開はリスクでしかない。会社勤めも8年目になる僕は、組織からコンプラ精神を刷り込まれてしまった。一応、責任ある立場である。社のことを書いて起こり得る最悪の事態を想像すると、僕の筆は止まってしまう。書けるトピックは限られるし、個人名は勿論、具体的な事象も語りにくい。多分皆そうなのだろう、気づけばmixiは消滅し、twitterFacebookInstagramも僕の周りでは限られた人しかやっていない。昨今、良い大人が、心に映りし由無し事をネットに掲載するのはあまり褒められたことでは無いらしい。要するに、誰も得しないのにリスクは高い、ということだ。

 

それでも書くのは最初に申し上げた通り、それが好きだからだ。日記を書くのは自己との対話である。思考を垂れ流し、研ぎ澄ますプロセスで自分が形作られる。その作業が単純に楽しい。或る性格検査で「貴方の生涯の伴侶は貴方自身です」と言われた。然り。喫茶店に座ると、向かいの席には自分が座っている。自分はそうゆう種類の人間だ。これ迄も、これ以降も変わることはないだろう。公表することにしたのは、単純に誰かに読んで欲しいからだ。曲を作ったら誰かに聴かせたくなるのと一緒だ。1記事1曲。12記事くらい書いたらアルバムが出来るかもしれない。

うまくいくといいね。向かいの席の自分が言う。うまくいくといいね。