俺たちはまた旅に出た

このとりとめのない人生。道なんて無い。上下左右すらない。歩いているようで、流されているだけな気もする。気づけばここに居た、という方が実感として強い。そしてこれからも、どこに向かうのか、なにがその先にあるのか。なにもわからない。いろんな過去を思い出す。それは目盛の付いた一本のまっすぐな道というよりは、島から島へ漂流した、時系列の前後すら曖昧な、取り止めのない旅の記憶みたいに思える。5才の隣に34歳があったり、22歳の隣に17歳があったりする。僕は成長という言葉はあんまり好きでは無い。僕はずっと僕のままだからだ。僕という人間は何も変わっていない。今でもゆずを聴き、村上春樹を読む。20年前の僕が知ったら驚くだろう。おい。お前は35になっても、ゆずを聴いて、村上春樹を読んでるぞ。何も変わってない。できることが増えたり、遠くまでいけたり、些細なことで心を乱されなくなったり。それは技術的な問題に過ぎない。やり方を知ってたら、中学生の僕にだって出来た。それをできるようになったというだけのことだ。外からの刺激が核を傷つけないように設計された特殊な回路や、感情を適切なアウトプットに変換する道具たち。僕が強くなった訳じゃ無い。言い換えれば、相対的に世界が弱くなった訳でも無い。今も昔も、世界は僕のことなんか知らない。世界は初めから、僕の敵でも味方でもない。世界と僕の関係性なんて無い。そこにあるのはただ一つ。僕の僕に対する、折り合いのつけ方だけだ。バチン。そしたら、世界とはつまり僕である。考え事をするとき喫茶店の向かいに座るもう一人の僕は、世界の投影でもあるのだ。僕は、ボールペンを走らせながら脳みそを探索し、そのまま世界を読解する。手持ちの道具も少しは使い慣れてきた。1に文脈、2に語彙、3に調和。たぶんそんな感じだ。全てを説明する万能の物語はない。それができるという奴は嘘つきの詐欺師だ。世界がそんなに、人間向きな訳ないだろう。それは人から与えられるものではなく、自分で削り出すものなのだ。削っては壊し、壊しては削り、その集積こそが僕の人生なのだと思う今日この頃であります。